スポーツマンはジェントルマン ~「関西のスポーツの父」A.Cシムに学ぶ~

○星野繁一(龍谷大学) 髙木應光(神戸居留地研究会)  西村克己(嵯峨野高校)

キーワード:関西初のラグビー、神戸居留地、KR&AC、ラムネ、ボランティア

【目的】
 発表の目的は、明治期、神戸で活躍したA.Cシムに焦点を当て、彼のスポーツ活動や社会的活動を通してスポーツマンとしての、そして市民としての、あるべき姿を追究することである。

【調査方法】
 A.Cシムに関する先行文献はなく、主に“The Hiogo News.”やJapan Chronicle “Jubilee Number.”、その他シムが創設したスポーツクラブ史“KA&AC.100Years.”などを利用した。

【結果と考察】
1)時代背景:19世紀の英国は、産業革命を境に新しくブルジョワジーが出現、競争をエネルギーに大変革を遂げた。この潮流の主役は若者で、彼らに指針と勇気を与えたのが、S.スマイルズの『自助論』である。その中で「努力と勤勉のみを武器として立身出世が可能で、それこそが価値あること、即ちジェントルマンの証である」と記した。また、この時期アスレティシズム=スポーツによる教育=が主流となり、理想の人物像・ジェントルマンの育成にスポーツが用いられた。
シムは1840年生れ。ロンドン病院に22歳で採用され、3級から2級へと薬剤師資格を向上、さらには薬局経営者資格も取得。また、彼は病院スタッフや医学生たちと共にテムズ川でボートを漕いだ。やがて、海外雄飛先を中国に求め香港・海軍病院や上海の薬品商社に勤務。この間、陸上競技大会でも活躍した。そして開港3年目(㍾3)の神戸へビジネスチャンスを求めて来日した。
2)神戸居留地:幕府は1858年「安政の五カ国条約」を結び、開港地に居留地を設けた。それは欧米人専用の居住・業務地区で、いわば「日本の中の外国」。この神戸居留地の自治組織、即ち居留地会議でシムは永年、副議長を務めた。
3)スポーツと文化の拠点KR&AC:1870年初夏、来神したシムは人々に寄付等を呼びかけ、わずか数ヶ月でKR&ACを創設。それは香港・上海でのスポーツマン、即ちジェントルマンとしての信用が、神戸に聞こえていたからである。 さらに芝生グラウンド(現、東遊園地)の設置にも関与した。
1876年関西初のラグビー試合ではFWで出場し英軍艦チームと対戦した。このグラウンドではサッカー、ホッケー、陸上、野球等も行われた。またKR&ACは、日本人にも胸を貸し、やがてここは「関西のスポーツのメッカ」となる。また、KR&ACの体育館では、室内スポーツは勿論、劇場も兼ね戦前は「素人演劇のメッカ」でもあった。
4)ブランド品〔ラムネ18番〕:欧米では薬剤師が清涼飲料水を扱った。六甲山からのミネラルウォーターは、ラムネに最適・美味でシムの〔ラムネ18番〕は飛ぶように売れた。直接買付けに来る小売店にも販売ルート(製造⇒卸問屋⇒小売店⇒消費者)を絶対外さず、スポーツと同様、商業ルールや商道徳を遵守した。
5)ボランティア活動:居留地では自衛・消防隊が必要で、シムは自ら応募し隊長を務め、計100人の消防隊員を指揮した。毎晩、火見櫓にも登り、確認の後ベッドへ入った。
上下6mもの大断層を生じた濃尾大地震(1891年M8.4)では、KR&ACで義捐芝居を公演し5,000$も集め現地へ向かった。2011年3・11と同様の大津波が1896年三陸海岸を襲った。シムはこの大津波にも、香港・上海・神戸の総代として釜石へ船で駆けつけた。義援金約2万円を手渡し、数週間も滞在し救援活動に当った。

【まとめ】
スポーツマン即ちジェントルマン
 1900年11月28日、腸チフスで死去。英字紙はシェークスピアを引用し“ This was a Man.”と讃えた。内外人による彼の顕彰碑が、今も神戸東遊園地に建つ。シムはスポーツプレーヤーとしての才能を自覚し、それを契機に「スポーツマン、ジェントルマン」に成ろうと努めた人物だった。