クラブチーム国際交流の軌跡と展望

―ラグビークラブ海外遠征を参考事例として―

鈴木 道男 (どんぐりラグビークラブ)
キーワード:国際交流 スポーツマネジメント 企画 キーマン 経済効果 社会貢献

(目的)
ラグビーの魅力は、スポーツ競技としてのゲームと、相手チームとの交流を通じて友情、文化を育む楽しみがある。なかでもクラブチームの海外交流は、援助を得ずに自費で自主的に実施・企画し、クラブ独自のゲームアレンジとアフターファンクションを通じてラガーの交流を楽しんできた。競技・勝敗に偏ることなく、その背景の国際交流に焦点をあわせ、日本のクラブが海外交流してきた軌跡を分析し、その目的、効果と将来を展望する。

(方法)
日本ラグビーフットボール協会には、クラブカテゴリーの統轄した統計資料はなく、独自に収集した資料で考察した。調査対象期間は1947年~2016年69年間、関東、関西、九州各協会加盟のラグビークラブ発行の資料・記念誌から、実績のあるクラブを抽出、海外交流の内容、経過をまとめ傾向を分析、考察した。

(結果・考察)
収集した資料を基に全国14のシニア中心としたクラブの遠征実績を調査した。1966年から2010年にかけて、17カ国・地域へ遠征、274の交流試合が行われている


概ね3期、黎明期・展開期・成熟期に分かれる。
(黎明期) 交流を主体とした海外遠征は、40歳以上のシニアクラブである「惑惑倶楽部」(関西)が1970年大阪クラブと合同で初の台湾遠征、1972年にカナダ遠征を実施、その成功が各クラブの海外遠征黎明のきっかけとなる……・
(展開期) その後、遠征ノウハウを共有した不惑倶楽部(関東)、迷惑倶楽部(九州)が続き、広がりを見せる。背景としては、当時の日本経済が戦後の混乱から落ち着き、経済発展、所得の増加、海外旅行ブームを迎えたことがある。クラブにおいても創部20年前後を迎え、メンバーが安定してきた。特に海外遠征を実施するクラブは、キーマンとなるメンバーがクラブ内を結束、遠征先のチームのキーマンとの関係構築をすすめてきた。遠征は、準備、受け入れ、トータルとしての企画がまとまって成功するのである。・・・・・・・
(成熟期) 2000年代以降~興味のある地域への遠征が一段落し、クラブ海外遠征は、チームとしての団体での遠征から、合同チームを編成しての遠征になってくる。また個人的なつながりを持つ選手が、単独渡航して、個人として現地クラブに合流するなどカスタマイズされた交流が増加している。 「ゴールデンオールディズ・ワールドラグビーフェスティバル」のように個人でも参加できる国際大会も企画され、クラブマネージャーに負担がかかるクラブ単位の遠征は減少したといえる。
・海外遠征実績に、カナダ、台湾などの遠征が多いのも、また香港10人制大会に継続参加など、熱心なリーダー、キーマンの存在がある。海外クラブの日本受け入れは、圧倒的にカナダと台湾のクラブチームが多い。
こちらも当初は単独チームでの来征、そして合同チーム編成での来征に変化してきている。これはラグビー交流継続の効果が表れ、民間相互国際交流の成果が現れている。
(まとめ) ラグビー遠征・来征、多くの選手が国際交流することは、相互理解と経済効果、社会貢献度も大きい。時代の流れとともに盛んになった海外チームとの交流が発展的に継承され、ラグビーのスポーツマンシップによる交流が広がり成熟化した。さらに「ラグビー国際大会」、幅広いカテゴリー、コンセプトで「遠征交流」が企画・開催できれば、新たなラグビーファンを増やし、楽しみを提供し、社会に大きく貢献できる。

ジュディシャル・サイティングシステムについて

宮島繁成(大阪弁護士会・近畿大学)

キーワード:ジュディシャル・オフィサー サイティング・コミッショナー 懲罰会議

■ジュディシャル・サイティングシステム
日本ラグビーフットボール協会は、2010年度のトップリーグからジュディシャル・サイティングシステムを導入している。ラグビーは激しい身体の接触があるため重大事故の危険が少なくなく、事故の撲滅は関係者の最大の願いでもある。また、危険なスポーツというイメージを払拭して競技人口を増やしたいという目的もある。IRB(現WR)は1996年から採用しており、2019年にはアジアで初めてのワールドカップが開催されることを踏まえてトップリーグに導入されたものである。

■手続き
サイティング・コミッショナーが、試合場もしくはビデオ映像によってチェックを行う。主な対象は、不正なプレーのうち、危険なプレーや不行跡とされる競技規則10.4所定の反則行為である。
サイティング報告があった場合、ジュディシャル・オフィサーを含む3名以上がパネルを構成する(懲罰会議)。
当該プレーヤーからのヒアリング、動画による確認等を行い、告知と聴聞の原則、代理人の立会、事実の認定等 司法類似の手続がとられている。
制裁内容はあらかじめ反則行為ごとに定められており、反則の程度によってさらにLower End(軽度)、Mid Range(中度)、Top End(重度)の3つに分類されている。いずれかを適用したうえで、加重・軽減事由を検討して、最終的な処分を決める。
タックルやチャージにかかわるものが多い。そのほか、殴打、膝蹴り、レフリーへの不行跡などもある。1~3試合の出場停止が多いが、10試合のケースもある。

■他の競技との比較
サッカーの場合は規律委員会と裁定委員会、学生野球は審査室が処分の審査を行っている。
ラグビーの制度は、第三者的専門機関が試合中のプレーを監視し、申告によって処分を発動させるという構造となっている。

■その他
レフリーの判定を覆すことはできるか。
日本スポーツ仲裁機構のスポーツ仲裁の対象になるか。
イエローカードが累積する場合。
対象となる試合。現在はトップリーグのほか、日本選手権、国際試合。
セブンズの場合。
複数のプレーヤーが原因を作っている場合の扱い。

大西鐡之祐 ~指導者としての原点についての一考察~

○髙木應光(神戸居留地研究会) 星野繁一(龍谷大学) 西村克美(嵯峨野高校)
キーワード:「柔能く剛を制す」、自由で民主的な部活動、ラグビーに救われた人生

1.目的
 本年は、稀代の名監督・大西鐡之祐(以下,大西)の23周忌に当たる。あの大西のラグビーに対する知識と情熱、そして指導者としての原点はどこにあるのだろうか。これ等を探ることによって、大西の人物像を理解すると共に、多くのラグビー指導者に、様々な示唆を提供できると考える。

2.調査方法
 大西は数々の言葉・文章・書籍を残している。『ラグビー』『スポーツ作戦講座3ラグビー』『ラグビー 荒ぶる魂』『わがラグビー挑戦の半世紀』『闘争の倫理』『大西鐵之祐ノート「荒ぶる魂」』『知と熱』『早稲田大学ラグビー部60年史』。その他、関連する『回想の東大ラグビー』『東京大学ラグビー部70年史』『京都大学ラグビー部60年』等。さらには「大西ハウス」と俗に言われる書斎のメモ類等、主として文献調査を基に大西の指導者としての原点及び、その時代背景を探った。

3. 考 察
1)監督として
 2015年エディ・ジョーンズH.Cの下、JAPANが南アに勝利。このビッグ・ニュースが世界を駆け巡ったことは記憶に新しい。しかし65年もの昔、早大監督として5年間で3回の全国制覇を成し遂げ、8-11とオックスフォード大に迫り、1968年にはNZポンソンビーに学生代表・監督で30-17と快勝。NZ遠征ではJAPAN監督として23-19オールブラックス・ジュニアを破った。このニュースも、当時の世界ラグビー界でトップ・ニュースとなった。1981年3度目の早大監督として対抗戦全勝優勝、早大27-9ダブリン大を始め、ケンブリッジ大、エジンバラ大にも勝利。その他、1977年には「鉛筆より重たい物を持ったことがない」早大高等学院を、国学院久我山に勝利させ花園へと導いた。それは、常に「柔能く剛を制す」を求めて考究すると共に、J.ディーイのプラグマティズムに学んだ賜物であった。

2)青春時代
大西の青春時代は、満州事変に始まる15年戦争と符合する。その前半は、雑用もなく自由で民主的な早大ラグビー部に入部、主将・川越藤一郎(元,関西及び日本協会会長)の下、バックローとしてレギュラーを努め、2年連続の全国制覇に貢献する。反面、青春後半は戦闘の最前線に配属され、戦争に翻弄される。卒業1年で近衛歩兵連隊に入営。ラグビー部で鍛えた気力と体力で苦の初年兵訓練を乗り越えた。しかし、希望する教育教官としての任務もかなわず仏印へ配属され、以後、カンボジア、タイ、シンガポール、スマトラを転戦。この間、数十回の戦闘を体験、幸いにも死を免れた。8月15日敗戦後は、マラッカ捕虜収容所を経て1946年6月に復員・帰還した。
3)敗戦後
 大西は闇市に集まる餓鬼のような眼をした人々を見て、「原爆に敗けたのではない、日本は庶民の飢餓で敗けた」ことを理解できた。こんな惨状の中、大西が早大グラウンドで見たのは、ガリガリに痩せた現役部員が汚いジャージーを着て裸足で走っている姿だった。腹が減ってラグビーどころでは無い筈の若人が、飢餓にも敗戦にも負けずラグビーに取組んでいたのだ。「彼らの不屈の精神こそ、青春の純粋さと崇高さを」示す何ものでもない、と感じた大西。改めて日本の復興は、教育以外にないと確信を持つに至った。
まとめ
 「殺すか殺されるか」大西の軍務8年間の苛酷で理不尽な体験。そして、東南アジアで見た朝鮮人慰安婦への同情、植民地政策への反省。その一方、マレーで遭遇した真白なゴールポストに思わず直立不動で敬礼、英国・戦犯調査官に「ラガーマンなら信用する」と無罪放免される等、幾度となくラグビーに救われている。これら戦争での実体験が、大西の人間観・教育観に絶大な影響を与え、彼を教育の道へと進ませたといえるのである。

グリーンカード導入に関するアンケートから

〇西村克美(嵯峨野高校) 星野繁一(龍谷大学) 髙木應光(神戸居留地研究会)
キーワード:グリーンカード、フェアプレーの精神、ブランド性

1. 目的:筆者らは、現在のラグビーが勝敗にこだわり過ぎており、本来ラグビーの持つすばらしい思想・哲学がプレーヤーに伝わらず、観客も含めラグビーのブランド性を理解しないままプレーし、携わっているのではないかと思う。そして我われは、この現状を危惧している。今回はサッカーで利用されているグリーンカードにスポットを当て、ラグビーへの導入やフェアプレー、マナー等に関して考察した。

2. 調査方法:調査表(別紙:発表時配布)を作成・配布し、大学生431名、スクール指導者62名、中学校指導者22名、高校指導者71名、大学指導者11名、レフリー14名、その他72名、計683名から回答を得た。

3. 結果:グリーンカードとは、日本サッカー協会がU-12の大会を対象に、フェアプレーを推進するため導入しているカードである。試合中、フェアプレー精神を発揮した選手やチームに対して、レフリーがグリーンカードを提示する、ということを行っている。ラグビーでは採用されていない。
今回の調査によって、ラグビー界ではグリーンカードの認知度が低いことが分かった(32.2%)。しかしながら、グリーンカードの導入には肯定的な意見が多い(44.0%)。一方、導入に否定的な意見としては、プレーヤーも指導者も「ラグビーではフェアプレーは当たり前」ゆえに必要ない、という意見が多く見られる(28.2%)。また、どのようなタイミングでカードを提示するのか、難しいという意見も多かった(31.6%)。
最後の第4項目で、筆者らが危惧している事に関連して、ラグビー界の現状を質問している。「レフリーに文句を言う選手が増加した(33.8%)」、「マナーの悪い観客が増加した(31.1%)」、「ペナルティー時に態度の悪い選手が増加した(30.1%)」。以上、3つの項目に対して特に多くの回答がなされた。(複数回答)

4. 考察:上述したように、プレーヤーも指導者も「ラグビーではフェアプレーは当たり前」ゆえに導入不要という意見も多く、プレーヤー・指導者ともにフェアプレー精神を大切にしていることが分かる。
最後の4.「ラグビー界の現状」に対する回答では、現状を心配する意見が多い。回答数の多い項目につてレフリーと選手で比較した。⑥ペナルティー時の態度の悪さ(選手29.0%:レフリー42.9%、以下同様)、⑦クイックプレーの妨害(23.6%:35.7%)、⑧レフリーへの文句(33.6%:42.9%)、⑩トライ後のマナーの悪さ(18.4%:35.7%)。以上、レフリーの方が高い回答率を示す4つの項目。これらの数字は、ラグビーの思想やマナーに反する行為が増えていることを明示している。この様な現状への認識が、グリーンカード導入を肯定する背景にあるのではないだろうか。

終わりに:スポーツにおいては、フェアプレーは当たり前である。特に激しく身体を当て合うラグビーでは、フェアーな行為をフェアーと明確に認め・褒めるシステムも必要ではないだろうか。特にスクール・小学生など初心者に、
フェアプレー精神を身に着けさせるのにグリーンカードは、大いに有効であると考えられる。
負傷時、かつて当たり前だった敵味方の区別なく、選手を気遣い・寄り添う主将の姿。残念ながらセーフティー・アシスタント制の導入によって、見かけなくなってしまった。また、観客の良きマナーも復活したいものである。例えば、素晴らしいプレーに対する敵味方のない拍手、ゴールキック時の静寂など。これらも、ラグビーのブランド性を示す行為である。ラグビー場に、再びかつての雰囲気を取り戻したいと思うのは、筆者らだけではあるまい。

20世紀初頭の米国におけるラグビーの衰退とアメリカンフットボールへの転換

大西 好宣 (千葉大学)

キーワード: アメリカ合衆国、ラグビー史、大学ラグビー、アメリカンフットボール

1. はじめに
現在、米国で隆盛を極めるアメリカンフットボールが、どのような経緯で同国一の人気スポーツとなったのかについて、わが国では殆んど知られていない。本発表では、米国におけるアメリカンフットボールがいつどのような理由で人気を獲得し始めたのか、15人制ラグビー(いわゆるユニオン)の衰退の歴史的経緯と関連づけながら紹介したい。

2. 米国におけるラグビーの受容と隆盛
米国初のラグビーチームは、1872年、ハーバード大学において誕生した。もっとも、当時同大でプレーされていたのは、あくまでラグビーに近いフットボールという程度のものであった。転機となったのは、1874年5月、はるばる隣国カナダから訪れたマクギル大学との対抗戦である。この時、正式なラグビーのルールがマ大によってもたらされた。その後、同じ東海岸の3大学を巻き込み、ハ大が中心となって国内の大学対抗リーグ戦が発足、これが現在のアイビーリーグの礎石となる。1890年代、ラグビーは隆盛を極め、毎年11月には事実上の全米選手権とも言える大学同士の感謝祭ゲームが人気を博した。

3. アメリカンフットボールの誕生
アメリカンフットボールの基礎を築いたのは、ウォルター・キャンプという元ラグビー選手である。上で紹介した感謝祭ゲームの第1回に、イェール大学の選手として出場していた。
彼の目に映った当時のラグビーは、多くの点でルールが曖昧で物足りなかった。そこで1882年、1)スクラムを簡略にし、2)攻撃側選手が守備側のタックルを適法に妨害出来るようにし、さらには3)ダウン(野球でいうアウト)という概念を導入することで、試合のスピード感を高めることに成功した。

4. ラグビー衰退に関する経緯
19世紀末には、アメリカンフットボールのプロリーグが誕生し、卒業後の大学スター選手を獲得することで人気を集めた。他方、1913年、史上最強と謳われた米国代表ラグビーチームはNZに3-51とホームで大敗、ファンを大いに失望させた。
その後、勢力を盛り返した米国代表ラグビーチームはオリンピックに4度出場。そのうち、1920年、1924年は金メダルを手中に収めた。再び国内での人気が高まるかと期待された矢先、ラグビーはオリンピック種目から消え、人々の関心は薄れた。

5. 現代への教訓
同じ英国発祥のスポーツであるクリケットも、ほぼ同時期の米国においてラグビーと共に人気を博したものの、プロ化の波に乗り遅れたことから野球に取って代わられ、同じ衰退の経緯を辿っている。
実はこの点は、現代の日本にも通じるものがある。すなわち、1995年のラグビーW杯において、日本はNZに17-145と大敗を喫し、そのことが現在のラグビー人気の衰退を招いたと言われたが、より根本的な原因は当時の世界のプロ化の波に乗り遅れたことだったのではないか。

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