○髙木應光(神戸居留地研究会) 星野繁一(龍谷大学) 西村克美(嵯峨野高校)
キーワード:「柔能く剛を制す」、自由で民主的な部活動、ラグビーに救われた人生
1.目的
本年は、稀代の名監督・大西鐡之祐(以下,大西)の23周忌に当たる。あの大西のラグビーに対する知識と情熱、そして指導者としての原点はどこにあるのだろうか。これ等を探ることによって、大西の人物像を理解すると共に、多くのラグビー指導者に、様々な示唆を提供できると考える。
2.調査方法
大西は数々の言葉・文章・書籍を残している。『ラグビー』『スポーツ作戦講座3ラグビー』『ラグビー 荒ぶる魂』『わがラグビー挑戦の半世紀』『闘争の倫理』『大西鐵之祐ノート「荒ぶる魂」』『知と熱』『早稲田大学ラグビー部60年史』。その他、関連する『回想の東大ラグビー』『東京大学ラグビー部70年史』『京都大学ラグビー部60年』等。さらには「大西ハウス」と俗に言われる書斎のメモ類等、主として文献調査を基に大西の指導者としての原点及び、その時代背景を探った。
3. 考 察
1)監督として
2015年エディ・ジョーンズH.Cの下、JAPANが南アに勝利。このビッグ・ニュースが世界を駆け巡ったことは記憶に新しい。しかし65年もの昔、早大監督として5年間で3回の全国制覇を成し遂げ、8-11とオックスフォード大に迫り、1968年にはNZポンソンビーに学生代表・監督で30-17と快勝。NZ遠征ではJAPAN監督として23-19オールブラックス・ジュニアを破った。このニュースも、当時の世界ラグビー界でトップ・ニュースとなった。1981年3度目の早大監督として対抗戦全勝優勝、早大27-9ダブリン大を始め、ケンブリッジ大、エジンバラ大にも勝利。その他、1977年には「鉛筆より重たい物を持ったことがない」早大高等学院を、国学院久我山に勝利させ花園へと導いた。それは、常に「柔能く剛を制す」を求めて考究すると共に、J.ディーイのプラグマティズムに学んだ賜物であった。
2)青春時代
大西の青春時代は、満州事変に始まる15年戦争と符合する。その前半は、雑用もなく自由で民主的な早大ラグビー部に入部、主将・川越藤一郎(元,関西及び日本協会会長)の下、バックローとしてレギュラーを努め、2年連続の全国制覇に貢献する。反面、青春後半は戦闘の最前線に配属され、戦争に翻弄される。卒業1年で近衛歩兵連隊に入営。ラグビー部で鍛えた気力と体力で苦の初年兵訓練を乗り越えた。しかし、希望する教育教官としての任務もかなわず仏印へ配属され、以後、カンボジア、タイ、シンガポール、スマトラを転戦。この間、数十回の戦闘を体験、幸いにも死を免れた。8月15日敗戦後は、マラッカ捕虜収容所を経て1946年6月に復員・帰還した。
3)敗戦後
大西は闇市に集まる餓鬼のような眼をした人々を見て、「原爆に敗けたのではない、日本は庶民の飢餓で敗けた」ことを理解できた。こんな惨状の中、大西が早大グラウンドで見たのは、ガリガリに痩せた現役部員が汚いジャージーを着て裸足で走っている姿だった。腹が減ってラグビーどころでは無い筈の若人が、飢餓にも敗戦にも負けずラグビーに取組んでいたのだ。「彼らの不屈の精神こそ、青春の純粋さと崇高さを」示す何ものでもない、と感じた大西。改めて日本の復興は、教育以外にないと確信を持つに至った。
まとめ
「殺すか殺されるか」大西の軍務8年間の苛酷で理不尽な体験。そして、東南アジアで見た朝鮮人慰安婦への同情、植民地政策への反省。その一方、マレーで遭遇した真白なゴールポストに思わず直立不動で敬礼、英国・戦犯調査官に「ラガーマンなら信用する」と無罪放免される等、幾度となくラグビーに救われている。これら戦争での実体験が、大西の人間観・教育観に絶大な影響を与え、彼を教育の道へと進ませたといえるのである。